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クラブロクラブ

自然な波に乗せられて

自家製なめたけ

出張ついでに友人一家に会いに行こうと思いました。めずらしく早い段階で連絡をしたところ、その日はお昼前後に句会があるらしかったのですが、せっかくなら句会に参加しませんかというご提案を頂きました。あいにく私もお昼は予定が入っていたので、句会には参加できそうになかったのですが、だったら句会に参加しなくても俳句だけ作ってみたらどうかと勧められました。それはもちろん、私がしばらく前に句とか詩に興味を持ち始めたときに句とか詩についてその友人にいろいろと尋ねていたからにほかなりませんが、とはいえ興味が薄れ始めてきていたこともあって一瞬迷いましたが、せっかくなのでやってみようかと思いました。

 

句会と言うのは俳句の品評会みたいなものなのでしょうか、私は参加したことがないので詳しくわからないのですが、聞くところによるとこんな感じのものだということです。まず、期日までに俳句を3つつくって主宰者に伝えておきます。すると、当日までに主宰者が参加者全員分の俳句がランダムにずらっと並んだ紙を用意してくれていて、それを見ながら自分の句を除いて最も良いと思った句を1位から3位まで投票します。そして今度は並んだ句に対して1つずつみんなで感想を言い合うというもののようです。

おもしろいのは、投票の時点ではもちろん、感想を言い合うときも誰の句か知らされないままで、自分の句についても、あたかも他の人がつくったかのように感想を言わなければならないということです。

私は実際に参加したことがないのでどんな雰囲気なのかわかりませんが、自分で作った句を余所行きの顔で平然と評する自分の姿を想像すると恥ずかしくてたまらなくなるのですが、他人の句を評するときに誰かが自分の句なのに余所行きの顔で平然と評しているのだと想像すると可笑しくてたまりません。

 

 

毎回お題みたいなものが決められており、3つの句のうち1つはそのお題を取り入れなければならないというルールもあるようです。今回は「口」でした。

 

さて、まだその日までには間があるし、そのうち良い句もできるだろうと思っていたのですが、やはりその世界にはまだまだ高い壁が待ち受けていました。日頃から俳句を作りなれている方の場合はそうでもないのかもしれませんが、たとえば日々の生活の中で何かを見たり聞いたり感じたりする中で、ふと俳句にしようと思う瞬間というのがまったくないのです。そしてまた、何度か俳句を作る時間を決めて取り掛かるのですが、なかなかイメージが広がっていかないのです。

 

いつのまにかその日が来てしまい、結局、友人に句を届けることができませんでした。

 

 

俳句と短歌は似ているようでまったく異なるもの、という認識はあったのですが、俳句をつくろうとしてみて、その認識がまちがっていないことが実感できました。

いわずもがなですが、2つの違いがとても大きな違いでした。

まずは、音数。

俳句は「五・七・五」の十七音、短歌は「五・七・五・七・七」の三十一音。

どちらも短いことは短いのですが、それでも短歌は俳句の倍近くあります。つまり、短歌でも短いと思われているところを、さらに煮詰めて煮詰めてグッと濃縮しなければならないのです。

ついで、季語。

短歌に季語は不要ですが、俳句は季語があってはじめて俳句と呼ばれます。

まず、季語を知りません。しかも、季語を使うということは、ただでさえ短い十七音のうち、およそ三音から五音は季語でとられてしまうのです。そうなるともうほとんど自由がききません。

 

そんなことで、まずは季語を検索して、一覧を眺めながら使えそうなものを拾って、そこから膨らみそうなことを想像して、使える音が少なすぎてうまくまとまらず、というのが私です。しかも、せっかく季語を使っても、季節感がまったくと言っていいくらい表現されないのです。

 

俳句は感受性の豊かさと事の本質を見抜く力のうえに成り立っているらしいということです。

言葉をもっとシンプルに扱えるようになりたいのですが、どうもそいつが苦手なようで、おまけにどうやら季節感のない生き方をしているようです。

 

 

 

秋の風 いつしかメール 口語体

ゆめうつつ あなたわたしの ながれぼし

えのきだけ 醤油とみりんで 炊いただけ