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クラブロクラブ

自然な波に乗せられて

校庭を駆けまわった感じなのかな

あたりまえだけど、結局は自分の気持ちしかわからなくて、

自分の気持ちは自分しかわからないわけで。

 

 

今、いろんな社会問題があって、

たとえば引きこもりとか、うつとか、そういうことをよくきくけど、

それらについて詳しいわけでもなく、

自分がそうであるというわけでもなく、

身近にそういう人がいるというわけでもないんですが、

最近少しずつ気になるようになってきていて。

で、その根っこがなにかはよくわからないんだけれど、

少なくとも自分は自分を肯定していいんだってことを、

言葉だけじゃなくてもう大前提として思えているかどうかってことがあるんじゃないかと思っていたりするのです。

そういう意味では、冷たい言い方になるけれど、所詮他人は他人で、関係ないんです。

 

あっているかどうかはわからないけれど、もしそれがあっているという仮定で考えるとしたら、

その大前提がどうしたら当たり前に大前提としてその人に落とし込まれていくのだろうか。

たとえば居場所という表現が正しいかはわからないけど、自分が何の気兼ねもせずにいられる場所があるのかどうか。

 

それって実は矛盾かもしれないけど、

他人は他人なんだけど、自分を肯定するのと同じかそれ以上に肯定できる人たちがまわりにいるということが大事なのかもしれない。

 

たとえばそれが家族なのかもしれないし、

たとえばそれが恋人なのかもしれないし、

たとえばそれが友達なのかもしれないし。

 

いまさらだけど、facebookで友達申請ってあるけど、

もう若い世代には友達って単語がそれくらいの意味で使われるのが一般的になってきているとしたら、それはひとつ大事な言葉が軽くなってしまったということなんだと思う。

それは良くも悪くもひっくるめて何でもかんでも「ヤバい」と表現することにも似ているし、

自分とは無関係な世界の出来事でもすぐに「感動」してしまう心の変化にも通ずるのだろうか。

 

言葉は時と共に変化し、生まれて、消えていくもの。

長く残った言葉が消えていくのは、淘汰と言えば淘汰なのかもしれないけれど、

そして、その分今後も長く残っていく言葉が生まれてこればまだ救いはあるのだけれど、

ただただ少なくなっていってしまうのだとしたら、

それは人にとっては感情の喪失にもつながっていくのではないかと大げさに思う。

 

そんなこと言ってるから、私には友達が少ないのかもしれない。

 

それでも友達がいる。