読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

クラブロクラブ

自然な波に乗せられて

ディスイズ〇

夏の終わりか秋のはじめか、それくらいの時期に、出張ついでに寄ろうと思っていた友人夫妻が、一足早く夏も盛りのお盆にこちらにやってきました。奥さんの実家は私の住む街の隣県なので、里帰りの何日かのうちの1日を空けてくれたようです。娘の〇ちゃんが1歳半になり、長時間お出かけをしてもなんとか大丈夫だということがわかってきた頃だったからかもしれません。 

 

待ち合わせたのは友人の実家がある県の大きな街で、でも私の家の方が近いところです。少し、といっても1時間近く早く着いた私は、喫茶店で本を読んで時間をつぶしました。そんなに早く着いたのには特に理由はありません。ただ家を出る準備ができたので家を出たら1時間早かっただけです。

 

大雑把に、駅、ということ以外に特に待ち合わせ場所を定めるわけでもないので、広くて人が多いこの駅ではなかなか出会えませんでした。この街には慣れていません。

ご当地ものを食べたいとのことで、季節感なく熱いうどんを求めて歩きます。実家がこの街と同じ県にある友人でもなく、家がこの街に最も近い私でもなく、縁もゆかりもない友人が案内するといういびつな昼食です。

 

前回〇ちゃんに会ったのは半年ほど前、1歳の誕生日にほど近い日でした。その時は友人夫妻の家を訪ねたのですが、お互いのアクションに反応し合う遊びをして、友だちになりました。1歳半の子が半年ぶりに会う、ということは、たとえば30歳の人にしてみれば10年ぶりの再会にも等しく、もし私が20歳の時にはじめて仲良くなった人と次に会う機会が10年後までなかったら、再会の日はとてもではないですが同じように仲よくすることはできないでしょう。

友人に抱えられた〇ちゃんは、私を見るとすぐに友人の胸にしがみつき、目を閉じます。しばらくしてこちらを見ては、しがみつき目を閉じる。はじめは恥ずかしがって隠れているのかと思いましたが、どうも寝たふりをしているようです。こんな小さな子の寝たふりはとても興味深いものがありました。きっと恥ずかしさもあったのでしょうが、この良くわからない人は自分にとってどんな人なのか、それを悟られないように観察していたとしたら、とてもおもしろいです。はじめは〇ちゃんがこちらを覗くたびに何かしらの反応をしてみたのですが、どうもじっくり観察したいのではないかという雰囲気を感じたので、あえて気がつかないふりをしてみたりもしました。ずっとそんな繰り返しだった〇ちゃんも、ほとんど食事も終わった頃にようやく観察も終了したのか、自分のご飯を食べ始めました。 

 

その店を後にして、カフェを探し歩きました。〇ちゃんがてくてく歩いているのを見ると、〇ちゃんの意思が感じられるてもう立派な〇ちゃんです。途中、柱のまわりをまわる〇ちゃんを追いかけたり、途中で逆回りにして〇ちゃんを驚かせたりしながら、にこやかな時間でした。

どの店もいっぱいで、店選びはなかなか一苦労しました。ようやく見つけた店もすべてイス席だったので〇ちゃんには不向きなのかもしれなかったのですが、贅沢は言っていられませんでした。

 

一息ついたところで、〇ちゃんもなんとなく慣れてきたような気がしたので、お土産を渡しました。絵本を2冊とハンカチです。絵本は以前、慣れない駅で20分ほど時間をつぶすことになった際に寄った本屋で見つけました。1冊は〇ちゃんの〇の絵本、もう1冊は以前選んだ絵本と同じシリーズのものです。ハンカチは、お祭りに連れられて行った際に、人を待つ時間をつぶすために寄った風呂敷屋にあったもので、私は和風のハンカチが好みなので自分用のものを探していたのですが、柄がいかにも〇ちゃん、あるいは友人を思い起こさせるものだったのでつい買ってしまいました。

 

少しずつ〇ちゃんが私を受け入れ始めてくれたようで、友人の財布に入っていたシールを私の手に貼ってきたので、それを〇ちゃんに貼り返し、〇ちゃんはそれをまた私の手に貼り、また貼り返し、という遊びをしました。このように直接のやりとりができるようになってきたので、思い切って〇ちゃんをだっこしてみようかと思いましたが、それはまだ〇ちゃんは許してくれず、友人にしがみつき、何度かのチャレンジが失敗に終わったのであきらめました。

やがて〇ちゃんは抱えられていた友人の腕から飛び出し、なぜか四股を踏み始めました。私はそれに合わせて地面が揺れて体が上下に動く様を表現すると、〇ちゃんは笑顔でまた四股を踏みます。それがいたく気に入ったようで、ついにはどすこーい、と言うのではないかと思うくらいに何度も四股を踏み続けました。 

 

私と友人がちょっと真面目な雰囲気のする話をし始めると、〇ちゃんは友人と散歩に出かけました。好きに動き回る〇ちゃんを見て大きくなったなあ、とふと思いました。

 

 

〇ちゃんは純粋に本来の人間らしさばかりでした。

それに比べて、なんでこんなに大人はねじ曲がっていくのだろうかと、自分自身を振り返って、そう思いました。

リバーサイド・ジェントル

地元の老舗旅館はどことなく敷居が高い印象があり、もちろん地元だからということもありますが、これまで宿泊したことはありませんでした。

 

知人がそこに宿泊したようで、その話を聞くと、そこらのビジネスホテルとさほど変わらない金額で宿泊でき、さらには朝食も充実していて、誰が泊まっても高評価を得られるのではないかとのことでした。

 

さて、そんな話をしてからまだ2週間も経たないうちに、大学の先輩にあたる友人から電話がありました。実家に帰るついでに、道中いろんなところに寄っていく計画をしているとのことで、日が合えば私の地元方面にも行こうかと思っているとのことでした。せっかく来るというのだから日を合わせない手はありません。

当然、どこに泊まるかということを考えるわけですが、私はすぐにその旅館を提案しました。パソコンの前で電話をかけていた友人はその場で検索し、どうも気に入ったらしく、そのまま予約をしました。

 

私の仕事の都合で、すっかり日も暮れてから最寄りの駅まで迎えに行きました。まず旅館に寄ると少しくつろいでから、私の好きな豚焼肉のお店に案内。旅館に戻るとまた少しくつろぎながら、どうということもない話から徐々に熱のこもる話に進んでしまうのがこの友人との会話の流れです。気がつけばずいぶんと遅い時間になってしまいました。

 

翌朝は楽しみにしていた朝食です。和洋中揃い踏みで、地元の名物もたくさん並んでいます。バイキング形式はつい食べ過ぎてしまうのでいけません。もう何度となくそれで後悔しているのですが、分かっていても食べ過ぎてしまいます。どれもこれも優しい味で安心して食べてしまいます。

 

話に聞いた通り、きっと宿泊した人がみんな高い評価をするだろう旅館でした。また誰か友人が来る機会があれば、こちらを案内したいと思える旅館でした。

灯台下暗しとはこのことで、地元なのにその良さを知らなかったことが少し恥ずかしくもありましたが、得てして地元の人ほど気がつかなくて、他所の人の方が良く知っているということは、あらゆる分野で多いような気もします。

モノマネ

書き物に関わる仕事をしている方と一緒に仕事をする機会があり、一段落したところで一席設けていました。その方は書き手としてではなく、今は裏方として尽力しているのですが、その方は今回の仕事のメインでもある書き手の方と一緒に仕事をするために、文章を書いて想いを伝え、それ以降ずっとその方の良きパートナーとして仕事をしているとのことでした。

 

私は表現すること全般がとても苦手で、特に話すことは目も当てられないほどヘタクソなのですが、それに比べれは書くことはまだましだと自分では思っています。しかし、ここのところずっと、その書くことすらうまくいかないもどかしさがありました。

 

そこで、せっかくの機会ですのでそのことを伝え、どうしたら文章がうまくなるのか尋ねました。

すると、考えもしなかったけれど実に単純で、しかしとてもおもしろい答えが返ってきました。それは、自分が好きな文章や書きたい文章をひたすら写す、でした。

まだ実践してはいませんが、とても好きな文章を書く人が幾人か思い当たるので、いつか時間をとって試してみようと思います。

 

続けて、表現をするということに関して言えばと前置きをした上で、今回の仕事も表現の一つで、らしさが表現されていた、と言われました。

この仕事に関してはできるだけ一般的なものにしようと、むしろ私らしさを出さないようにしたつもりなのですが、他者から見れば十分に私らしさが出ていたようでした。良かったのか悪かったのかは分かりませんが、表現する市内に関わらず、そうして滲み出ていくものこそ人に伝わるものなのかと思えば、少し気が楽になるし、少し気が重くなります。

教科書が降ってきた

ずいぶんと昔からある全国的な組織は、各地域ごとで活動しています。知人からその組織に入らないかというお誘いを受けました。私は以前、何度か仕事でその組織と関わったことがあり、組織としての理念的な部分には共感するものがありましたが、そのメンバーあるいはメンバーの言動にはどこか懐疑的でした。閉鎖的というか自己満足感が強いというか、私が苦手とする雰囲気が嫌でも感じられました。

それでもその誘いに乗ろうと思ったのは、ちょうどその少し前くらいから、苦手な雰囲気をもつものに近寄らなさすぎる性格が何ともいいがたい閉塞感を生んでいるのではないか、という直感を持っていたからです。苦手な雰囲気の中に入ることで何を感じるのか、どう変わるのか、あるいは変わらないのか、何ができるのか、何ができないのか、あるいは何をやろうと思えるのか、思えないのか。明らかに苦痛を伴うと分かりきっていることを求めていくという、少し自分らしくない選択をしました。

 

正式に加入が認められるのはまだ何カ月も先のことになるのですが、その前の段階で強烈な違和感に苛立ちを覚えました。

 

その組織へ加入するには現メンバーの推薦が必要で、志望動機等の書類を書いて提出したあと、組織の役員の面接を受けて入会が認められるという仕組みのようです。

一昔前まではその組織に入りたい人であふれていた時期もあるそうで、誰彼かまわず加入させていては質が保てない状況だったそうです。ところが時代は移り、メンバー確保のために既存のメンバーが知り合いに声をかけて募集するというのが現状です。

 

年度ごとにその組織への加入の受付期間が定められているのですが、私が誘われたのは締め切りのおよそ1週間前でした。とりあえず書類をださなければならなかったのですが、ちょうどなにかと立て込んでいる時期でもあったのでなかなかそちらに時間がさけず、なんとかギリギリで提出しました。特に志望動機等を書く小レポートみたいなものには細かいところまで指摘が入るということでした。誤字脱字はもちろん気を付けるにしても、やれ字が汚いだとか、文章がわかりにくいだとか、いちいちケチをつけてくるそうです。今どきすべて手書きでなければならないというのもどうかと思うのですが、そもそもこちらの本心としては、志望動機なんてのはただ一言、おたくのメンバーに熱心に勧誘させたからでしかなく、それを仰々しく書かせること自体に抵抗があるのに。

 

 

少し間をあけて、役員による面接です。これも正直なところ理解に苦しみます。何が偉いのかわかりませんが、そんなに仰々しく構えられても、自分たちが誘った人をなぜ快く迎え入れることができないのでしょうか。そんなにも上下関係を植え付けたいのでしょうか。そんな組織ではないはずでしょうに。しかも、夏ど真ん中の時期にも関わらずジャケット、ネクタイ着用との指定が。すっかりクールビズが定着している時代に、新卒の採用面接でもないのだから。

 

 

私は、書類も面接も腹を立てながらも、どちらも自分なりに、それでも一応気を遣って対応しました。形式的なものだとわかっているし、万が一これでNoと言われたなら、そんな組織はこちらから願い下げです。結局何事もなくただただすべての人たちが決められた役割を当りまえのように演じるという、なんの面白みもないまま進みました。

 

 

この後も正式に加入する前段階として、何度かの義務研修、といういかにもな名前の会に出席しなければならなかったり、決して安くはない会費を徴収されたり、とてもではないけれども愉快な気持ちにはなれないようなある種の儀式的なことが続くようです。

 

過去の栄華に胡坐をかいて勘違いしているだけの組織文化が、メンバーが変わっても脈々と受け継がれている時代から取り残されそうな組織。

仕組みの目的を考えることなく、ただただ前例にならって変化を求めない組織。

誰もがおかしいと感じながらそれに慣れてしまい同じことを繰り返していく組織。

これからが本当に楽しみです。

がやがや、どかどか、ざわざわ

とある地方の伝統的なお祭りに行くことになりました。知人が家族で行くとのことで、私ともう1人共通の知人を誘い、また現地では知人の奥さんの友人が合流するとのことでした。

 

私はお祭りが好きではありません。人が多いのが苦手で、どのように楽しめばいいかわかりません。気乗りしないものの、こういう機会がないと行くこともないと思うので行くことに決めました。というよりも、実のところ断るのも億劫だったからかもしれません。

 

 

平日の夕方だというのに、すでに大勢の人で溢れていました。そこから夜にかけて、ますます人が増えていくこともわかっていましたので、もうすでに気が滅入っています。

 

このお祭りの象徴ともいうべき大きな飾り物が、何駅にもまたがるほど広い範囲のいたるところに飾られています。それらの飾り物はそれぞれの特徴によって名前がついていて、何も知らない私はただただ知人について歩き回り、それらを眺めてはまたついて回っていました。それぞれに特徴があると言っても、私は二つ三つ見ればもうそれで十分という程度の感性しか持ち合わせていませんでした。

 

ところどころで美味しそうなものを見つけては屋台に寄っていましたが、そもそも屋台の食べ物よりもちゃんとお店で食べるものの方がおいしいだろうことはほとんどの人がわかっていても、いざ口に出すのは憚られるというものです。

 

知人の奥さんの友人と合流するのに30分、もうひとりの知人も友人に会うというのでそれにも30分。人だかりの中から人を見つけるのは、いくら待ち合わせ場所を決めたとしても一苦労です。何が何だかわからないまま人にまみれて時間が過ぎていきます。少し気持ち悪くなりました。

 

ただ淡々と同じような光景がいたるところに現れては、また歩き、特にクライマックスを迎えるでもなく帰りの電車に乗りました。

 

 

このお祭りは1000年以上も前から続く歴史あるものです。それだけ長く続くものですから、続いていること自体に大きな価値があるのでしょう。ほとんどのお祭りがそうであるように、このお祭りも当初の開催目的と現在の開催目的は明らかに異なります。

これが文化的な活動というのなら、それ自体を楽しめない性格である以上、それに耐えうるだけの教養を身につける必要がありそうです。

180°回ってから360°見渡してみる

今の仕事をスタートさせて4年目に入りますが、一昨年、去年と、人を雇えばいいのに、というようなことを幾人かから何度となく言われるようになりました。それが口で言うほど簡単なことではないことを私はひしひしと感じていました。もしかするとそれが一番難しい仕事なのではないかと思うほどです。

 

なぜそんなに難しいのかと考えると、責任の大きさと範囲に集約されるように思います。

 

まず一つは、雇うことになる人の人生の一部、しかも場合によってはとても大きな一部を背負うという責任です。家族がいればその家族まで含めた責任になるかもしれません。そのためには、本当に継続して利益を生み出すことができるのか、組織を継続して発展させていけるのか、そういった現実的な問題がここにあります。

 

もう一つは、その人の言動に対する責任も抱え込むということです。直接的にしろ間接的にしろサービスを提供する相手がいますが、その人の言動によって良くも悪くも質が決まってきます。そこから引き起こされる現象を良くも悪くも受け止めなければならないのです。そのためには、その人をどの程度信頼できるかどうかという問題になります。

 

これらは、大きな組織であればあるほど、あるいは仕事内容が決められていればいるほど、抱える責任は小さく、狭くてすむのでしょう。ただその数が多いということでもあります。一方の小さな組織は、数は少なくともその責任の重みは著しくますように感じます。責任をとる、ということが何を意味するのかは実に曖昧ですが、それでも全てにおいて責任をとる覚悟ができなければ、人を雇うということはできないと思うのです。

 

そう思えばこそ、人を雇えばいいのに、という簡単な言葉にも少し懐疑的になってしまうほど神経質になってしまうのです。

 

しかしながら、反対に、人は組織を辞めることがどれだけその組織にとって大きなダメージを与えることになるのかということについて、それほど深刻には考えないものであることもまた当然のことです。お互いがお互いの責任を担いあう関係が築けるといいのですが、やはりなかなかそうはいかないのです。

わずか5年足らずで前の職場を辞めた私が言うことではありませんが。

 

 

今年に入り、ようやく一人、迎え入れる体制が整いました。

傍から見たらなんのことはないようなことでしょうが、私にとっては大変なことです。

さて、どうなることやら。

気体から個体になること

昨年夏に公開された映画、私は当時観に行こうかとても迷っていました。前評判も高く、私も興味がある分野の映画でしたので注目していましたが、結局観に行きませんでした。理由はこの作品の監督の映画が3作ともに高評価を得ているのですが、私はどれもこれもおもしろいと思えなかったからです。

その映画が早くもテレビで放送されるとあり、録画して、時間が取れる時にじっくりと観てみることにしました。

 

ああ、本当に映画館に行かなくてよかった、わざわざ録画してまで観ることはなかった、もう二度と見ることはないだろう、残念ながら私にとってはそういう作品でした。

 

この監督の作品は、いつも家族がテーマとなっています。特殊なあるいは歪な家庭環境で暮らす登場人物たちが、様々な障害・困難を乗り越えて、家族(あるいはそのまわりの人たち)との関わり方を模索していくというような話です。私はどうも苦手です。私自身が親になればまた見方も変わってくるのかもしれませんが、今のところどうしても夢中になれません。

しかし、その大前提を差っ引いて考えても、やはり不満です。その中でもあえて良いところをあげておくとすれば、映像がとてもきれいであったことと、一部で批判されていた役者が私にとってはとても良く感じられたことでしょうか。

 

 

私が残念でならなかった点は細かく挙げるといくつもあるのですが、もっとも大きな要因は二つです。

 

一つは説明しすぎていること。

すべて登場人物たちがセリフで説明してしまっています。映像表現の素晴らしさは時として言葉を必要としないことです。その視線一つで、その表情一つで、その動き一つで伝えることができる内面。それなのにすべて口に出させてしまっては台無しというものです。

 

もう一つは欲張りすぎていること。 

主題は父と子のはずなのに、クライマックスをそこに持ってきません。あの関係もこの関係もみんなまとめて詰め込みたい、という思いが溢れていて、その一つひとつがとても雑に描かれているように思えてなりませんでした。蛇足、という言葉がまさにピッタリです。

 

その二つがかけ合わさって、実に薄っぺらい表面的なものに終わってしまったように思いました。そういう作品にはそういう作品のテイストというものがあるだろうと思うのですが、きれいな映像と力のある役者というこの作品の良さが、むしろ内容の薄さを際立たせ、逆効果になってしまった感すらあるのです。

 

作り手が過不足なく想いをすべて伝えきりたいという気持ちの表れなのかもしれませんが、それが実に野暮ったくなってしまっている。それよりも、もっと観る側に任せてほしい。もっと信じてほしい。もちろん観る側がすべてを感じ取れたり、読み取れたりするわけではないけれども、もしそうだとしても、それが繰り返し観る原動力となり、その作品がより深く愛されていくことになるのだと思います。

 

 

どんなに理屈を並べても結局は観た人がどう感じたかが大事なので、もちろんこの作品を高く評価する人もたくさんいていいと思いますが、私にとっては久しぶりに心を乱される映画でした。

5番の旅人とバツイチラジオ

ひとまわりほど年下の知人、各地を歩き回っているのですが、久しぶりに地元に帰ってきたと連絡があり、共通の知人を含め3人で食事をすることになりました。

 

私が最近いかがなものかと思う出来事について話をしたところ、その知人は同意し、もう一人の知人はわからなくはないけれどその感覚はない、とのことでした。世間的には後者の方が一般的な感覚であるということは、その出来事がニュース番組で特集を組まれていたことからもよくわかります。美談として取り上げられていたその出来事に素直に素敵なことだと思えない私はどこかしらひねくれたところがあるのだろうと思います。他にも、その知人は私と同じような時期に同じような原因で同じような考え方から、非常に暗く沈む期間があったことがわかり、またそのことを現時点では私と同じようにとらえていました。心がひっかかることの感覚がかなり近いということがわかりました。もちろんもう一人にはどんなに説明してもまったく伝わりませんでしたが。

 

 

ひとまわりほど年上の知人、知り合ってからはもうだいぶ経つのですが、ひょんなことから共通の知人と3人で食事をすることになりました。

その知人は仕事の都合で少し遅れてくるということでしたので、2人で先に食事を始めていました。その知人ともう一人の知人は公私ともに親しいため、私にその知人についていろいろと教えてくれました。ほどなくして知人が合流し、様々な話題について、おそらくわりと本質的なところまで話が及びました。

話を聞くうちに、なんだか私はその知人と性質が似ているような気がしました。たとえば、普段はおちゃらけているけれどブレないポイントがあり、そのことに関してはまわりの人にもわりと厳しくあたる、とはもう一人の知人から見たその知人の姿でしたが、たぶん、私もそうです。しかし、解釈としては厳しく当たっているわけではないと思いました。私も怒っていないのに怒っていると思われることがよくあるのですが、ただ夢中になっている、真剣になっているだけなのだろうと思います。他にも、本当に重要な決断、それは特に自分自身についてのことですが、その考え方もとてもよくわかりました。あるいは、その知人が私にする質問が、もう一人の知人からすると結構冷や冷やするような角度だったようなのですが、私はまったく違和感がありませんでしたし、またその逆もそうだったようです。

決定的に違ったのはその表出の仕方がポジティブかネガティブかの差でしたが、その根っこにあるところは非常に近い感覚であることがわかりました。

 

 

この二つの機会がさほど間をあけずに続いたことは、私にとっては実にありがたいことでした。

同質性が高い人と話をするのはとても楽しいです。そこに、正反対とは言わないまでも、その性質について理解できない、けれどもそういう人のことも受け入れてくれる人がいると、さらに楽しくなるのかもしれません。

さほど深い関わりではなかったとしても、同質性が高い人とは自然と気が合うような感じが直感的にするのでしょうか、その感覚はあまり間違っていないのかもしれません。でも、いきなり二人で楽しめるかというとなかなかそうもいかず、そこをつなぐのは得てして第三者です。

そこがまた人間のおもしろさなのかもしれません。

伏兵の満塁ホームラン

最寄駅から球場までは歩いて20分ほどだったでしょうか。田舎の車生活にすっかり慣れてしまっている私は、普段20分も歩くことはほとんどありません。近くのコンビニにも車で行ってしまう、それがあたりまえになっています。にもかかわらず、球場までの道のりがまったく遠く感じることもなかったのは、自分でも気がつかないほど野球が楽しみだったからなのでしょうか。

 

席は最上階、5階です。子どもの頃はホームランボール欲しさに外野席が好きでした。大きくなると、迫力がある内野席。今回はたまたまもらった招待券が5階席だったのですが、望んだ席でもありました。試合を観る、プレーを観る、応援する、熱狂するというよりも、落ち着いてその空間を楽しむのには最適なのではないかと思います。私はそういう楽しみ方がすっかり馴染んでいるのです。

 

球場に着くとまずは席を探し、少し腰かけてゆっくりします。お腹もすいていたので、売店に行くついでに球場を一周しました。いくつかの種類の売店がありましたが、私はお弁当にしたいと思いながらも、まずは知人に聞いてみると、お弁当がいいということでした。お弁当を扱っている売店に行くと、思いのほかたくさんの種類が置いてありました。私も知人もたまたま同じお弁当を選びました。良いチョイスです。

 

お弁当を食べ終えたころに試合が始まりました。

野球のいいところは、真剣に見たい人にとっては一球ごとの組み立て、駆け引き、プレーの質に注目できておもしろいという一方で、気を抜いて適当に観ていても何ら支障がないというところかもしれません。平均しても3時間を超える試合時間は、子どもにとってはもちろん、大人でもずっと集中できるような時間ではありません。知人はこれまでの野球観戦で何度か寝てしまったこともあるようです。にもかかわらず来てくれたことに感謝しました。

 

知人は野球のルールをよく知りませんでした。わからないことがあると私に聞いてきます。私は詳しいというほどでもありませんが、好きなことは好きなので、一般レベルのことには答えられました。問題は、答えるほどに聞かれてもないことまで話したくなってしまう自分の性格です。

聞いてもいないことを勝手に話し続ける人、というのは、世の中にある程度の割合でいると思います。私は、それを聞くのがさほど苦痛じゃないというか、むしろどんどん話してもらいたいと思うことがよくあるのですが、一般的にはありがた迷惑なのでしょう。それは分かっているつもりです。だから自分では極力そういうことは避けたほうがいいということも頭にはあるのですが、それでもちょっと興味があるんじゃないかという態度をとられると、つい話しすぎてしまうのです。特に、知人は基本的には何でも嫌な顔一つせずに話を真面目に聞いてくれるタイプなので、むしろそれが迷惑なのかどうかがわかりにくいという側面があるのです。野球についての謎もだいぶ解明された、というわりと大袈裟な表現を使って楽しかったと言ってくれたので、せめてそれを素直に受け取ることで自分を保つ以外にありません。

 

さて、試合はというと、とてもおもしろい内容というわけではありませんでしたが、負けている場面で出場したベテラン投手の淡々としたピッチングに、今の彼の立場と投球内容とのギャップに、私はそれだけでもいいものを見たような気持ちになりました。やはり私は野球が好きなのかもしれません。

 

試合後に寄った喫茶店では、野球の話もそこそこに、思いのほかいろんな話に花が咲いてしまい、気がつけば閉店時間となっていました。

 

 

人を誘って遊びに行くことがとても苦手です。

ですが、たまにはいいかもしれません。

ローリング・ディスカバリー

久しぶりの野球観戦となったのは、招待チケットが余っているということで知人に2枚もらったからです。しかしてこの2枚というのが曲者です。ここのところ、どこかに出かけるときは一人で行くのが基本となっていて、食事は複数人で行くことはありますが、それこそ野球もここ5年ほどでたしか2回観に行っていますがどちらも一人、年に5本前後くらいのペースで観ている映画もそのほとんどは一人、まれに行く美術館にも一人です。そんな暮らしにすっかり慣れ切ってしまっているため、二人で行くというだけで少し気後れしてしまいます。だからといって、せっかく2枚もらったんだから、誰か一緒に行ってくれる人を探さないといけないし、むしろこういう機会に感謝しなければ。

 

平日の試合だったのでその時点で行く人を選びますし、会場へのアクセスも考慮しなければなりません。そもそも友人・知人が少ない私は、こういうときとても困ります。しかし、先日いろいろと手伝ってくれて、私を癒してくれた知人にお礼もしておきたかったので、とりあえず声をかけてみました。都合がつくかどうかもそうですが、そもそも野球に興味があるとは思えなかったので、さほど期待せずにいたのですが、意外にも行きたいとの返事がありまして。

 

当日は最寄りの駅で待ち合わせをします。きっと時間より早く着いているのだろうなと思い、私も少し早目に行くと、やはりほとんど同じくらいのタイミングで駅に着きました。

 

知人が持っていた紙袋は私へのプレゼントでした。

 

人から何かをもらう機会はそんなに頻繁にあるわけではありませんが、まれにそういうことがあったとしても、私は少し複雑な想いになることがしばしばあります。たとえば誕生日の近くに何かしらの用事で幾人かが集まる機会があったときなどには、気を遣ってプレゼントを用意してもらったりすることがありますが、良くあるパターンとしては、わかりやすく私の好きな分野のものを選んでくれます。ただ、私はそもそも物欲があまりない方で、身のまわりに物がたくさんあることに対して必ずしも肯定的ではなく、好きな分野に関する物でさえ、さほど欲しいと思わないことが多い、あるいは好きだからこそ要らないということもわりと当たりまえのようにあり、たいていそういうことになります。物が増えてくると不要ならものからどんどん処分したい気分になるときもあります。そんなとき、自分が買ったものは気に入らなければ捨ててしまえばいいのですが、人からもらったものはそこに意味があるので捨てられません。悲しいかなそれが不要なものであっても、なかなか踏ん切りがつかないものです。

もしかすると多くの人も同じような気持ちなのかもしれません。そうでないと、私がいかにも冷たくて面倒な人間であるかが目立ってしまいますから、そうであることを実は希望しているのですが、それはともかくとして、自分がそうであるからか、人に物を贈るというのは非常に難しく、困ったらお菓子という無難な選択に落ち着くことがほとんどです。そうでない場合というのは、わりと贈る相手の感覚的な部分をなんとなく想像できる場合がほとんどです。そして、そういう相手というのはただでさえ少ない友人たちの中でも本当に稀です。

 

さて、その紙袋には包装されたスリッパが入っていました。それは、私をいたく感激させました。

 

私が借りている作業場にはもともと備え付けのスリッパがあるのですが、私はそれを使いたくなくて自分で気に入るスリッパを用意しようと思っていました。しかしなかなかいいものが見つからず、とりあえずつなぎとしてその辺に売っている安いスリッパでやり過ごしていました。結局そのつなぎスリッパは1年も使うとすっかりくたびれてしまって、いよいよちゃんとしたものを買わなければと思い、そう思い始めてからも結局もう2年以上が過ぎています。知人が作業場に来た時、もちろんその日はみじんもそんな話はしていないのですが、どこか気になっていたらしく、この機会に合わせて用意してくれていたようです。

 

私好みの和テイストであったこともそうですし、特別祝ってもらうような日でもないにもかかわらず何気なく用意してくれていたこともそうです。そしてなにより、私が潜在的にもっとも欲しているものを感じ取ってくれたこと、つまり、そういう想いの巡らせ方ができる人であるということが何とも素敵な気持ちにさせるのでした。

 

野球の前から、もう楽しい時間になりました。